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「自由」になってこそ観えてくるもの

○ 鎖国のままのほうが良かったと思いますか?

 

「不自由を自由に」これは私が属しているビジネススクールで聴いた経営理念のうちの一部ですが、私には一発で、とても惹きつけられる言葉でした。

この志向からは、様々な取り組みの方向性が考えられるでしょう。

だからといって、あえて、不自由なままでもがく在り方も否定はしませんし、そのプロセスだからこそ提供できるものもあります。「不自由さから逃げず向き合う」ことで自由が得られるのだと思います。

人は、どこまでも自由になどなれない…という意識もあります。

確かに生きている以上、究極的にはそうでしょうし、魂になってからも、どこまで自由なのかは宗教家ではない私には分かりません。

ですが、自由になってこそ観える先にこそ進化があると言えるのではないかと、私には思えます。

過去に”囚われて”何かをしていることと、過去を”活かして”何かをしていることとというのは…似ているようで紙一重のように違っていて、実に奥が深いな…と実感しているところです。

活かしているようで囚われているままなのと、囚われずに、でも活かしているというのは、その言動や雰囲気などの非言語から醸し出るものが、在り方からの思考が、物事の捉え方が瞬間的なところで違ってくるという意味です。

シンプルに言えば、囚われていなくてフローなのか、囚われていないふりをしているノンフローなのか、ということです。それで出されるパフォーマンスは自ずと違ってきます。

自らの特性や資質を活かしたいとは、きっと多くの人が願っていることではないだろうかと私は推測しています。

自らの特性や資質を広く心地よく活かせる道をデザインするのには、様々な課題が付いて回りますが、それだけ有形無形に意義があり成長があるステージと言えるでしょう。

(なんだか、こう書いていると原田隆史氏の『仕事と思うな 人生と思え』という言葉を思い出します)

ここで、囚われからもがく中での自己矛盾に気が付かないままでいたり、気が付いても意固地に否定したり…それ故に重箱の隅をつつく自己合理化をすればするほど、次のステージへ上がれなくなってしまいます。

そうして、キラキラした輝きや自画自賛をしていても分かる人には透けて視えて、早々に見透かされてしまいますが、そのような方々も残念ながら多いのではないでしょうか?

そうすると小さな村に留まっているばかりになって、多様性のある街には、いつまでも入れなくて街を外から眺めて斜めの見方をするばかり…。

仮に入っても消化不良を起こして認知がずれてしまい、全体からはなんだか浮いてしまって、何でもかんでも同調圧力に感じられてしまって苦しい…。

そこで自分に意固地になるほどに、場の本質からは遠ざかり、意固地に認知のズレを起こしているままかもしれません。

島国根性に惹きつけられるのは限られた範囲で、いつまでも一人親方、または家族経営の域を出ず、ビジネスとは言いつつも、それはビジネスっぽいレベルだと見られてしまいます。

つまり、分かる人だけ分かればいいという視野狭窄で、すぐに分かる素振りを見せない人、見せられない人への思いやりや優しさに欠ける、そこには驕りも感じられてしまうわけです。

マーケティングにおける表現とは、分かる人にだけ分かってもらえばいいというものではないのは言うまでもないでしょう。

だからといって万人に分かってもらえるということも、それもまたありませんし、私が書いているこの文章だって本意が伝わらない人には、全く伝わらないものでしょう。

そのために迎合したり、分かる人を切り捨てて他に行こうということでもありません。

黒船が来た当時、日本は荒れに荒れたと私たちは歴史で学んで来ていますが、それだけ思考が大きく激しく存在を賭けてかき乱されることになったとも容易に推測できます。

それでも現代において、そのまま鎖国していれば良かったと思う人は、きっと例外を除いていないのではないかと予想します。

世界は広い…その世界に向けて開けていることを望む方が、現代ではほとんどではないかと予想しています。

ここで言いたいのは…鷹の目を持って大きい海原を観て、必要としている人に届けきるのが集客マーケティングの真髄でもあるということです。

同時に、潜在顧客のメンタルブレーキを深く深く観ていく蟻の目も必要になります。

届けきれていないなら、ブレークスルーを始め、そのために克服するものは沢山あるという進化への一歩が大事だということです。

ブレークスルーについては、単にすればいいというだけのものでもないので、こちらにも書きました)

もしかしたら、それは永遠の課題かもしれませんが、丸いものを丸く、四角いものを四角く伝えきるというのは、思いの外、簡単ではなかったりしますが近づき続けることは出来ます。

 

○「必要とする人」とは、目の前にいる人だけ?

 

「必要とする人」の見極めも実は難しい側面があります。

一見、この人には必要ない」と思える人が、実は無茶苦茶、必要としている、しかも優良顧客になる人であるにも関わらず、それに気が付けていないというケースもあります。

それは顧客本人だけではなく、提供する事業者側も気が付けていないことはよく見受けられますが、気が付けていない顧客のことを人を「潜在顧客」と呼びますね。

または気が付けていても、すぐにそれを言葉にできない潜在顧客の方々もおられます。

(そこには何かしらのメンタルブレーキがかかっている場合が少なくありませんので、まず、そこに目を向けて理解していくことが先であり、そこで切り捨てる気持ちを持ったり、早々に思考を転換させようなどと焦りからの行動をしたら、ブレーキは強まってしまいます)

顕在化して、その人にニーズが明確に観えている、しかも自分でも欲しいと言葉にできる「今すぐ客」なら話は早いでしょうし、初学者や、よほどの下手を打たなければコンバージョンまで、比較的、そんなに苦労しないでしょう。

そこでマーケティングは、それほど必要なく、一般的な多少のマーケティング手法だけでコンバージョンまで得られやすいでしょう。初級者でもやり方(Do)を学んで頑張れば、それなりに出来てしまうことでしょう。

先ほど、比較的と書いたのは、潜在顧客のほうが実は圧倒的に数が多いのにも関わらず、潜在しているが故にコンバージョンまでは、今すぐ客の簡単さとは違うからです。

ですが、潜在顧客を見込み客とみなしていく、その関わり方(信頼関係の育成)次第では、より多くの人に価値を伝えられることになります。

これは中小企業におけるマーケティングの第一歩、基礎であり最初の基本原則の1つです。

そもそも、すぐ目先で必要としていると明言できる人だけを相手にしているうちは、いつまでも事業は安定しないか、安定しても極・短期間ということになりかねないのは、おそらく察しが付くのではないでしょうか。

体力が続くうちは良いと思うかも知れませんが、いつまでも狩りをしているようなものです。

そして事業云々以前に、このことは貴重な出逢いの機会損失とも言えます。

潜在顧客に気が付いて、よくよくそれを自覚してシンクロするように考え抜く姿勢、そこで求められる視野の深さと広さの先では、自ずとステージが違ってきます。

ここでは抽象的に留めましたが、このプロセスを進めていくに当たってもスキームがあります。

隠れていたけど、実は誰よりもあなたを必要としている人に出逢いたい、無残に切り捨てたくないなら、とても大事なことではないでしょうか。

 

○ まだ見ぬ大切な誰かに逢いたいという想い

 

潜在顧客は視えないからいない、リアルではない、のではありません。

視えていないだけで、リアルには存在するわけです。

まず、手練手管の手法や方法論、戦略思考に走る前に、この目先だけではないリアル視点を重々、踏まえて浸透させることが先で在り方に反映していきます。

在り方は肌感覚を創り出し、発する言葉に込められる醸し出すものの違いとなります。

つまり、同じようなことを言っていても、なぜか響いて来ない人と、不思議と響いてくる人の違いです。

なぜか暖かく感じられる人と、暖かさを装っているかのように違和感を感じられる人との違いです。

違和感には、必ず理由があり、それは偶然の産物ではなく、なるべくして、そうなっています。

それも前述したように極一部を対象にしてなら、いくらか頑張り続ければ実績を得られる人も多いのではないかと思います。

その村の実績から街にしたいと思ったときに、そこを乗り越えられるかどうかに壁があります。

ここで言う「乗り越える」とは、決して、それまでの村を切り捨てることでもなければ、ぞんざいにするということでもありません。

村を大事に踏まえつつ、街も得ていける自分になるということで、かえって村を大切にして育てることにもなります。

ましてや、迎合して伝えたいことを曲げたり、提供する価値の本質や伝えたい想いのコアを変えることでもありません。もちろん、お金のために血も涙もなくすこととは、全く違います。

ここで留意したいのは、迎合はしないけど意固地になるということでもないのです。

事業家とは何も冷たく身勝手な人にばかりではなく、そのような人がメディアに出やすくて目立つから、そのような先入観を持たれやすいという側面はないでしょうか。

それよりも相互に良い意味で、”なるべくして”を意識して得られることが、本質追求型マーケティングです。

それが小手先の手法に埋没していては、到底、辿り着けない…労せずして好反応を引き寄せる源となります。

 

○ 鎖国から大海原への開国へ

 

隠れ家的なサロンも好きですが、開かれたオープンな見晴らしの良いサロンも、そこには多くの気づきがあり、イノベーションがあります。

そして、どれほど隠れ家的にしようとも、または村にしようとも街の人々と隔絶は出来なくて、広い世界の影響からは逃れられないのが現実ならば、現実を自由に泳げるほうが、伸び伸びと生きやすいのではないかと思えています。

それは常に多くの人と、むやみやたらに交わろうなどという一元的で雑な意味ではありません。

(シンプルなのは大事ですが、シンプルなのと短絡的なのとは違います)

世間から目を逸らすのでもなく、世間の影響に惑わされるのでもなく、頑なになるのでもなく、素直に柔軟な自分を活かして生きていけるようになるという多様性の意味でもあります。

多様性(ダイバーシティ)…それは時代が言い始めたから迎合するという捉え方は、世間には多いかと思えます。

そう言われるようになって、まだ、それほどの歴史も経ってないですから当然かもしれません。

謳い文句のスローガンようになっているところも多々ありますし、誤解されて捉えられていることも多いようです。枚挙にいとまがないですね。

それよりも…時代が言い始めるように変化してきたのには、どのような理由があるのだろうと、その奥深くまで感じ取ろうとする姿勢のほうが、より本物の何かを感じ取れるのではないでしょうか。

そして、ダイバーシティが容認して認めるまでのレベルなのだとしたら、包括したり含有するイングレーションとは何なのかも考えていきたいですね。