「恐れからの行動か、愛からの行動か」、この2つのどちらかで行動するかによって、醸し出して感じさせるものが違ってきます。
こちらの個人ブログ記事でも書きましたが、人は想いへのシンパシーから動きます。
ここで愛について語るわけではありませんが、広告や何かしらの表現をするのでしたら、それが人に与える快・不快、さらには他者の尊厳をどこまで、どのように考えるかは重要だといえます。
それはCSRやSDGsが言われるようになったからというだけではなく、自らの見識や人格、在り方(Being)を育てるためにも本質的なところで重要だと思います。
世の中には様々な広告がありますが、パッと見て快・不快のどちらかは感じますし、その中間であってもどちらか寄りというのは考える以前に感覚で感じるものです。
その広告表現の創り手の固定観念から、誰かにとって差別的・否定的な不快で息苦しい広告・アピールになっていないかどうかというのは、以前より内外で気にかかっていたことでした。
例えば、その1つで業界批判などもそうです。
仮に業界に批判される要因があり、それを正したり軌道修正したりする流れを創りたいから言っているとしても、ジャーナリストでも政治家でもなく営利活動をしているわけです。
それを見た人は、仮にその「誰か」(または状態の)当事者でなかったとしても、誰かを否定する姿を観て不快に残念に感じているかもしれません。
発信側としてはそうして誰かの批判から入らないと…自分の視点や思想が否定されるのではないかなどの恐れや不安から、他者否定的な表現をしているケースが見られることがあります。
「○○は間違っている。だから、こうあるべきだ」として、だから自社サービス(または商品)を使うべきだ的な決め付け像からの誘導が、何故、どこか不快に感じられてしまうのか…。
見た人は、その○○を出している当事者でもないのに、なんとなく不快…。
賛同するのは、ごく一部の特定のグループのみで、それ以上に広がらない…。
そもそも、否定から集めようとするのはごく限られた範囲にしか広まらないという特性があるようです。
また、その特定範囲でグループを作っても、そこはカオスでありチームになり得ないということも思い出しました。
言い換えるなら、狭い村と広い街の世界は、両方にそれなりの年数を住んだことのある人なら一瞬で説明不要で明らかなほど、単純に言って、その在り方からして違います。
確かに批判や反対することも大事ですが批判することに躍起になるあまりに、その対象も人間だということを、唯一無二の尊厳は同じようにあるのだと、よくよく忘れてはならないと私は思うのです。
かつての学生運動が反体制で始まったものの、結局は内ゲバ騒動などで悲惨な状況となり分解されていったとも聞いたことがありますが、ふと思い出しました。
私は学生運動の年代よりずっと後ですので実感はありませんが、実に難しいところもあるのだろうなと推察します。
反○○と言いながら自らが○○っぽくなっていくケースは、世間に関わり続けていく中で見かけることがあるな、と思います。
反・支配と謳っていながらも称賛や賛同を受けるほどに、自らが知らず知らず違うカラーの支配的に染まっていっているということもあるかもしれません。
驕りなどの慢心に溺れずに泳ぎ続けるというのは、思うほど容易いものではないのかもしれません。
学生運動というキーワードは怖いワードでもありますが、別の視点で1つのアーティストのファンクラブを創るなら、音楽性によっては他者批判的でも良いかもしれません。
大人は分かってくれない、学校は教えてくれない、社会は…体制は…国は…と反骨めいて表現するグループ内でならば批判ぶった非難視点は、その場では盛り上がるでしょう。
しかし、もし、それ以上の多様な世界に向けてオープンに開いていくなら(特定のファンクラブではそういうこともないでしょうが)、多様な背景や事情をフレキシブルに知っていき、そこから考え抜いていくという大人の視点が自ずと求められます。
そして、それは一筋縄では行かず、短絡感情で出来ることではありませんが、それだけの深みや意味、価値があるでしょう。
批判する対象には、なぜ、そのような不協和音が鳴っているのか、非難するより以前に真っ直ぐに知っていく必要があります。
非難も結構ですが、それだけでは実質的には変わらず、溝を深めるばかりだからです。
つまり、偏っていたり、近視眼的だったり、どこか作為的、そのために他者批判を使っているから「不快」に感じられるのではないかと思えます。
そう言えば、かつてアナログでも比較広告・批判広告(比較販売)が一時的に流行ったかもしれませんが、なぜ、それを見かけなくなっていったのでしょうか。
そこを考えることで見直したり学ぶことも出来るのではないでしょうか。
大手・中小・個人などの枠組みに囚われず、さらには倫理・道徳などの枠組みにも囚われず、綺麗事でもなく時代のリアルな変遷から学ぶというのは大事と考えられるところです。
例えば、FacebookなどのSNSでの発信も、事業に集客・誘導していくための内容である場合は、それもまた広告、PRの一環であると思います。
そのアピールの仕方が表面上の輝きや品がある・ない以前に人権や尊厳に触れていないかどうか、自身が投稿されている内容によっては今一度、見直してみても良いかもしれませんね。
述べていることが正論であるかどうか以前に。もし、どこかの他者を貶めていたら、それは具体名を挙げていなかったとしても遠回りで間接的な誹謗中傷となってしまいます。
私たち日本人は幼少時より「ダメだ」などの否定言葉で育てられたことが圧倒的に多いと聞きますが、そうして「ダメだ思考」が染み付いてしまっているところがあります。
「ダメ」的な言葉遣いをしてしまうことが根強い癖にもなってしまって、それ以外の発想が出にくくなっているのかもしれません。
特に自らが正しいことをしていると思っているが故に正論に寄りがちなところがある場合は、その「正しさ」が誰かをマウントしていないか、振り返りや内省が必要なのではないかと思うところです。
誰かをマウントしてでも、自らに優位に誘導することが活動でしょうか?
自身では毒舌キャラを気取ってるつもりが、もしかしたら、どこか痛い人・苦しい人と思われていたとしたら残念な話です。
大を見て小を知る視点で、以下『誰も否定しない、縛らない。これからの広告のかたちとは-“ジェンダー・ポジティブ”な広告を考えるワークショップ』を読んでみると(弊社がジェンダーギャップなどに関わる業務をしていなくても)、多々、参考になるところがあると感じました。
否定しない広告・集客。今後のテーマとして是非、考えていきたいところです。
改めて「広告は人を縛ることも、解き放つこともできるもの」として…。
(上記ページより抜粋引用、以下より)
ジェンダー・ポジティブな広告メッセージングのポイント
1.決めつけない
・性別で線引きをしない。
・「女性なら~べき」などと決めつけない。
・人を縛り付けるような固定概念を刷り込む表現になっていないかチェックする。
2.特定の人や状態を否定しない
・「今の時点のあなたも素敵」が前提。
・一般的に良くないものとされるものも、「ダメ」なものではない。
(しみもそばかすもしわも、傷も、その人の歴史なのだから。)
・今のあなたも素敵だが、「より健康になるため」あるいは「あなたがもっとあなたを好きになるため」の提案をさせてくださいというスタンスを忘れない。
3.優劣をつけない
・白い肌と焼けた肌。太っている人やせている人。筋肉のあるなし。過去の自分と今の自分。……どちらが優れていて、劣っているということはない。
・どちらが優れている/劣っている、と言うことで、相手の選択肢を狭めない
4.目的は何だったかを思い出す
・広告の目的のひとつは、商品やサービスを知ってもらう、購入してもらうこと。
では、その商品やサービスがかなえたい目的は何だっただろう?
──とにかく体重を減らしてもらうこと?周囲から浮きたくないと不安になってもらうこと?他者に好感を持たれるために焦らせること?
──そうではないはず。ダイエットも、脱毛も、化粧品も……商品やサービスは、誰かの健康を守ったり自信をつけてもらったり「誰かの幸せな人生をお手伝い」するためのものだということを何度でも思い出す。
なお、以下で記されている具体例などは分かりやすく参考になるかと思いますので、特に面識はありませんがシェア紹介として併記します。